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Claude Debussyについて

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クロード・アシル・ドビュッシー(1862年-1918年)フランスを代表する作曲家

1862年8月22日にサン=ジェルマン=アン=レーで生まれ。10歳でパリ音楽院に入学、ピアニストを目指すが1879年頃(17歳頃)に賞を得られず断念、作曲家の道を志す。         

日本;1862年=文久2年、徳川慶喜、坂本龍馬、江戸時代幕末の混乱期、文久の改革、麻疹(はしか)大流行など)              

ローマ賞受賞と留学: 1884年カンタータ《放蕩息子》でローマ大賞受賞。イタリアに留学。イタリアの雰囲気に馴染めず期間を繰り上げてパリに戻る。                    • 転換期と成功: 1889年パリ万国博覧会にてジャワ音楽に触れたことで規則に縛られない自由な音楽の可能性を見出す。1894年の《牧神の午後への前奏曲》の初演後1902年のオペラ《ペレアスとメリザンド》の成功により作曲家としての地位が不動のものとなる。             ・晩年: 1914年第一次世界大戦が勃発、同時期に直腸癌を発病。病と戦火に怯え苦しみながら   「フランスの音楽家」と称し、12の練習曲や楽器のためのソナタを書き上げた。         1918年3月25日、パリ16区にて55歳没。                         

日本;1918年=大正7年、「大正デモクラシー」の象徴的な年、全国規模の民衆暴動「米騒動」、寺内正毅内閣退陣。(※シベリア出兵を見越した商人たちの買い占め、大戦景気による物価高騰、お米の値段が庶民の手に負えないほど跳ね上がり、富山県の漁村女性たちが「米を安く売れ!」と立ち上がったもの(越中女一揆))

創作の根底には絵画の世界と深く共鳴する美学                      「瞬間」と「光」の捉え方

印象派の画家たちが太陽の光が変化する様子や水面のきらめき、大気の揺らぎといった「瞬間的で感覚的印象」を捉えようとしたのと同様、ドビュッシーも自然の微妙な濃淡を音楽で表現しようとした。                                          • 絵画と音楽に共通するモチーフ:自然、戸外の情感、光の効果、変幻自在な水の動き等の印象派

特定の絵画作品からのインスピレーション

葛飾北斎 日本の浮世絵を好み、交響詩『海』の初版表紙には北斎の〈神奈川沖浪裏〉のデザインに採用。 ピアノ曲『喜びの島』はワトーの『シテール島への船出』に着想を得たと言われている。

音を「色彩」として扱う技法

印象派の絵画が混色を避け、並置された色彩で光を表現したようにドビュッシーは従来の和声の規則を打ち破り音を独自の「色彩」として配置し、5音音階(ペンタトニック)、平行和音ペダル効果などを駆使することで「水のきらめき」や「透明感」といった絵画的な視覚イメージを聴覚へと変換しました。

芸術哲学:「最も美しいウソ」

ドビュッシーにとって芸術とは日常の再現ではなく「嘘の中で最も美しいウソ」ならしい。   印象派絵画が「光の印象」を描いたようにドビュッシーもまた、音楽を魂の動きや感覚の自然な流れに寄り添うものへと変容させた。絵画的アプローチは聴衆を「忘我」の境地へと誘うための印象的作風となっていった。

交流関係;当時のフランス音楽界を牽引する異才たちが集う。 モーリス・ラヴェル=尊敬しつつもライバル視、エリック・サティ=親友、イーゴリ・ストラヴィンスキー=歳の離れた友人。    詩人、文学者、美術家など。最後にスキャンダラスな女性関係が挙げられるが自分の子供は大変可愛いがった。

今日はこのくらいで終了、ドビュッシーに関する簡単な纏めでした。 次回はピアノ曲、ベルガマスク組曲について記述します。ごきげんよう!